1-A.実用的な電子相関・励起状態計算法
DC
量子化学計算の応用範囲が拡がるにつれて、現実により近いモデルを採用する機会が増える。そうした場合に問題となるのが、取り扱う系の大きさと計算が終了するまで時間の関係である。たとえば、よく用いられる密度汎関数理論(DFT)やHartree-Fock(HF)計算であっても、系の大きさ(N)に対して3~4乗の計算時間が必要となる(O(N3~4)と記す)。その問題を解決するために、様々な線形スケーリング法が提案されており、分割統治(DC)型DFT/HF法もその一つである。このDC-DFT/HF法は、分子軌道が非局在化するのに対して、フォック行列や密度行列が比較的局在化しやすいという性質をうまく利用している(図 1-A-1)。そして、部分系の定義する際に化学結合の切断に伴う誤差を緩和するバッファ領域を導入するのが特徴である。また、全ての部分系に対して共通のフェルミ準位を用いることで、部分系の電子数が非整数になることが許容される。結果として、非局在化電子系を含む様々な系に適用することができ、全系の電荷・スピン多重度を指定するだけで全系の密度行列とそのエネルギーを求めることができる。
図 1-A-1
系の大きさと計算時間の問題は、高精度な計算ほどシリアスになる。Møller-Plesset 2次摂動(MP2)法、1,2体結合クラスター(CCSD)法、CCSDに摂動3体を加えたCCSD(T)法では、計算時間はそれぞれO(N5), O(N6), O(N7)となる(図 1-A-2)。中井研究室では、このDC法をさまざまな電子相関法や励起状態計算法に拡張し、その有用性を確かめてきた。
図 1-A-2
DC-電子相関法では、DC-HF法によって得られた部分系の分子軌道と軌道エネルギーを用いて、MP2, CCSD, CCSD(T)法などの電子相関計算を実行する。しかし、DC-HF法の部分系には、結合の切断により生じる誤差を緩和するバッファ領域が存在し、それらは複数の部分系にまたがっている。そのため、部分系の相関エネルギーを単純に足し合わせるとダブルカウントの問題が生じる。この理論的な問題は、中井によって提案されたエネルギー密度解析(EDA)を用いることにより解決された(図 1-A-3)。
図 1-A-3
DC-電子相関法を用いると、MP2, CCSD, CCSD(T)計算いずれも計算時間が系の大きさに対して線形になる。実際、ポリエン系に対する数値計算の結果、線形スケーリングが達成されることで、従来法では(推定)10,000日必要なCCSD(T)計算がDC法では1日で終了することが示された(図 1-A-4)。
図 1-A-4
DC-励起状態計算法は、DC-HF法によって得られた部分系の分子軌道と軌道エネルギーを用いて、励起中心に対してTDDFT, SACCI法などの励起状態計算を実行する手法である。そのため、実質的な計算時間は部分系の励起状態計算になる。したがって、全系がいくら大きくなっても計算コストは一定、つまり、O(N0)である。
光活動性黄色タンパク質(photoactive yellow protein; PYP)は、紅色硫黄細菌にみられる水溶性タンパク質で負の光走性を司る。この光受容タンパク質の励起中心はp-クマル酸であるが、溶液状態に比べてタンパク質内では大きな長波長シフト(レッドシフト)が起こることが知られている。DC-TDDFT法やDC-SACCI法によりPYP全系に対する励起状態計算が可能となり、初めて励起エネルギーの長波長シフトを正しく記述することができた(図 1-A-5)。
図 1-A-5
DC-励起状態計算法は、部分系を超えた電荷移動励起状態や非局在化した軌道が関与する励起状態を取り扱うことができない。これは、他のすべてのフラグメント型の励起状態計算法に共通の問題である。中井研究室では、動的分極率の極が励起状態の情報を含むことに着目して、世界に先駆けてこの問題を解決した。動的分極率の計算手法には、等価な結果を与える3つの手法、すなわち、結合摂動自己無撞着場(CPSCF)、乱雑位相近似(RPA)、そしてグリーン関数(GF)が存在する(図 1-A-6)。
図 1-A-6
動的分極率の極を特定する際に多数の周波数に対する計算が必要である。このことを考慮すると、DC-GF型励起状態計算法が最も計算時間が短くなることが示された(図 1-A-7)。HF/DFTレベルだけでなく、線形応答型結合クラスター(CCLR)法に対してGF表式を導出し、DC-GF-CCLR法を確立した。
図 1-A-7
トリオキソトリアンギュレン(trioxotriangulene; TOT)は、森田靖教授のグループ(愛知工業大学)によって開発された安定な有機ラジカル分子である。この分子がπ型に積層した材料は種々の興味深い機能を有し、波長1000nm以上の近赤外光を吸収することが報告された。TOTのπ型積層材料のHOMOやLUMOは分子全体に非局在化しており、通常のフラグメント型の励起状態計算法では取り扱うことができない。そこで、DC-GF型励起状態計算法を適用することで、30量体以上のπ型積層材料において近赤外光の吸収が見られることを初めて理論的に示した(図 1-A-8)。
図 1-A-8
重要文献
<DC-DFT/HF法>
- T. Akama, M. Kobayashi, H. Nakai, “Implementation of divide-and-conquer method including Hartree-Fock exchange interaction”, J. Comput. Chem., 28, 2003 (2007).
<DC-電子相関法>
- M. Kobayashi, Y. Imamura, H. Nakai, “Alternative Linear-Scaling Methodology for the Second-Order Møller-Plesset Perturbation Calculation Based on the Divide-and-Conquer Method”, J. Chem. Phys., 127, 074103 (2007).
- M. Kobayashi, H. Nakai, “Extension of linear-scaling divide-and-conquer-based correlation method to coupled cluster theory with singles and doubles excitations”, J. Chem. Phys., 129, 044103 (2008).
- M. Kobayashi, H. Nakai, “Divide-and-conquer-based linear-scaling approach for traditional and renormalized coupled cluster methods with single, double, and noniterative triple excitations”, J. Chem. Phys., 131, 114108 (2009).
<DC-動的分極率計算法>
- T. Touma, M. Kobayashi, H. Nakai, “Time-dependent Hartree-Fock frequency-dependent polarizability calculation applied to divide-and-conquer electronic structure method”, Chem. Phys. Lett., 485, 247 (2010).
- H. Nakai and T. Yoshikawa, “Development of an excited-state calculation method for large systems using dynamical polarizability: A divide-and-conquer approach at the time-dependent density functional level”, J. Chem. Phys., 146, 124123 (2017).
<DC-励起状態計算法>
- T. Yoshikawa, M. Kobayashi, A. Fujii, H. Nakai, “Novel approach to excited-state calculations of large molecules based on divide-and-conquer method: Application to photoactive yellow protein”, J. Phys. Chem. B, 117, 5565 (2013).
- H. Nakai, T. Yoshikawa, “Development of an excited-state calculation method for large systems using dynamical polarizability: A divide-and-conquer approach at the time-dependent density functional level”, J. Chem. Phys., 146, 124123 (2017).
- T. Yoshikawa, J. Yoshihara, H. Nakai, “Large-scale excited-state calculation using dynamical polarizability evaluated by divide-and-conquer based coupled cluster linear response method”, J. Chem. Phys., 152, 024102 (2020).
<TOTのDC-励起状態計算>
- Y. Ikabata, Q. Wang, T. Yoshikawa, A. Ueda, T. Murata, K. Kariyazono, M. Moriguchi, H. Okamoto, Y. Morita, H. Nakai, “Near-infrared absorption of π-stacking columns composed of trioxotriangulene neutral radicals”, npj Quantum Mater., 2, 27 (2017).
<Review>
- M. Kobayashi, H. Nakai, “Divide-and-conquer approaches to quantum chemistry: Theory and implementation”, pp. 97-127 in ‘Linear-Scaling Techniques in Computational Chemistry and Physics: Methods and Applications’, R. Zalesny, M. G. Papadopoulos, P. Mezey, J. Leszczynski (Eds.) (Springer, 2011).
- T. Yoshikawa, H. Nakai, “A linear-scaling divide-and-conquer quantum chemical method for open-shell systems and excited states”, pp. 299-323 in ‘Fragmentation: Toward Accurate Calculations on Complex Molecular Systems’, M. Gordon (Eds.) (Wiley, 2017).
<日本語解説>
- H. Nakai, T. Akama, M. Kobayashi, “分割統治法に基づく線形スケーリング法の開発”, Bull. Soc. Discrete Variational Xα, 21, 47 (2008).
新聞報道等
- プレスリリース 早稲田大学「有機分子集合体による近赤外光吸収を実現太陽電池やセンサー、医療分野における検査技術の開発への貢献に期待」
- プレスリリース 愛知工業大学「近赤外光を吸収する有機化合物の合成に成功 — 愛知工業大学応用化学科 森田教授・村田准教授の研究グループ」
- 記事掲載 化学工業日報「早大 愛工大 有機分子TOT 近赤外光 強く吸収 センサーなど応用へ」(2017年6月12日 朝刊 1面 2段)
- 記事掲載 日経産業新聞「太陽電池、効率化に道、有機分子、近赤外光も吸収、愛工大など」(2017年7月17日 6面)
- 記事掲載 OPTRONICS ONLINE「早大ら,有機分子集合体で近赤外光を吸収」(2017年6月9日)
- 化学ポータルサイトChem-Station掲載 スポットライトリサーチ「近赤外光を吸収する有機分子集合体の発見」(2017年8月10日)