先生のコラム
「シュレディンガーの猫」と「無重力状態の宇宙飛行士」
アインシュタインなどの天才的な物理学者たちはよく思考実験をしました。マクロの世界を支配するニュートン力学に対して、原子核の周りを運行するミ クロの電子状態を正確に予測することができる波動方程式で有名なシュレディンガーも思考実験をしました。→ シュレディンガーの「生命とは何か」
「シュレディンガーの猫」というのは、シュレディンガー自身が、「量子論の確率的解釈」に対して疑義を唱えて立てられた思考実験でした。天才的な物 理学者に共通する能力とは、物理や数学の才能だけでなく、彼らの頭脳の中で、この大宇宙を包含するほどの驚くほど壮大なイマジネーションの能力がある 点です。私たち科学者は、一旦、学問的な大きなドグマができてしまうと、なかなか古い定説から抜け出すことができません。しかし、天才的な物理学者た ちは自由な発想と想像力の翼で定説を破壊し、新たな理論を開拓する能力にとても秀でています。生命科学というと、物理学に比べると宇宙を統一するよう な原理や法則性を追求する学問ではないというイメージが強いのですが、必ずしもそんなことはありません。染色体の分配制御においても思考実験が存在し ます。それが20年前、私が提唱した「無重力状態の宇宙飛行士」です。
今、宇宙の無重力状態に放り出された宇宙飛行士を想像してみてください。船外活動をするのに身体がぶれないように2つの宇宙船から投じられたロープ を左右の手で受け止めて宇宙空間に宇宙飛行士を静止させようとします。しかし、右から来たロープを宇宙飛行士の右手で捉え、左から来たロープを左手で 受け止めれば張力が発生し、2台の宇宙船の真ん中で宇宙飛行士は宇宙空間の中で固定されますが、しかし、必ずしもうまくロープをとらえることができ ず、40本ずつ投じられたロープはどんどん絡まってしまいます(図1上)。しかし、宇宙飛行士は間違ったロープを正しい手につなぎ変えることによって 徐々に修正することができるので、ロープはしっかり張られて、宇宙飛行士は宇宙空間の中で固定され安定し、作業がスムーズにできるようになります(図 1下)。

これと同じ様なことが実は私たちの細胞の中でも日々起きているのです。細胞の中は、まるで「無重力状態の46人の宇宙飛行士(染色体)」が遊泳して いるようなものです。紡錘体極から投じられたロープのような微小管が動原体を捉えようとしますが、右から伸長した微小管が右側の動原体を補足し左から 伸長した微小管が左側の動原体を補足すればよいのですが、動原体には40本ほどの微小管が結合できるので、交差が起き微小管は染色体上で絡まってきま す。実際に、前中期の姉妹染色分体は、姉妹動原体の片方のみが片方の紡錘体極に結合したモノテリック結合の状態から始まります。その後、両方の動原体 が、同じ紡錘体極と結合するシンテリック結合や1つの動原体が2つの動原体と結合するメロテリック結合が増えます(図2上)。しかし、このような誤っ た微小管接着では、紡錘体の両極から微小管で牽引されているわけではないので、張力が姉妹染色分体にかからないので、染色体は赤道面上に整列すること ができません。しかし、不思議なことに、絡まった染色体に結合した微小管は、だんだん修正されてた正しいアンフィテリック結合(二方向性結合)に繋ぎ 変えられ両極から微小管によって牽引されるので、染色体は赤道面上に整列していきます(図2下)。この修正能力があるために、全ての染色体は赤道面上 に整列することができます。では、細胞はどのように誤った微小管接着を認識し、正しい接着へ修正してつなぎ変えていくのでしょうか? この問題は染色 体分配制御の最大の謎でした。
この染色体分配における大きな命題を初めて知ったのは、私がハーバード大学の研究員をしていた頃、UCLAからハーバード大学へ教授として移籍する Andrew Murray博士による最初の講演(1998年)でした。私が、最初にAndrewと出会ったのは、SACの発見がNature誌に最初に掲載された1991年の京都での 講演で、初めて出会ったAndrewの髪はレインボーカラーに染められて、耳にピアスどころか鼻にもいくつものピアスがされた格好で、それを見た私は ぶっ飛びました。まるで、モダンアーティストのAndy Warholを彷彿させるような人物でした。7年後のハーバード大教授になるAndrewはどんな格好をしているのだろうかという好奇心のほうが強く、講演に行ったところ 耳ピアスしかしていなかったのを見て逆にがっかりしたのを覚えています。しかし、Andrewと直接、話すとサイエンスに対してとても真摯で、大宇宙 の原理と同様にミクロの世界の大原理や、なぜ生命が生まれ進化したのか、この大原理を追求したいと好奇心いっぱいの少年のようなキラキラした輝く瞳を 持つ誠実な研究者であることがわかりとても共感したのを覚えています。私たち分子生物学者にとってバイブルのMolecular Cloningの編者で有名なTom Maniatisハーバード大教授が、ハーバード大学へ戻ってきたAndrewを我が息子のように講演の冒頭で紹介したのがとても印象的でした。Sydney Brenner、Paul Nurse、Leland Hartwellらの生命科学のパイオニアと並んで、Andrewのような研究者になりたいと当時、強く思った出会いでした。