先生のコラム

「団栗」:寅彦と夏子、一瞬の夏、永遠の夏


 寺田寅彦は少年期を高知県高知市で過ごし、明治29年、熊本の五高に入学し、 そこで、彼の人生を決定づける二人の教師に出会った。
一人は、田丸卓郎という物理学教師。寅彦は田丸先生から物理学の面白さを学び取り身の回りのほんの小さな現象から、自然の大原理を見つけ出す感性を研 磨し、研究・実験に心血を注いだ。東京帝大教授として、非常にユニークな視点から物理学の多くの業績を残した。

もう一人の教師は、当時、英語教師だった夏目漱石。寅彦が2年の学年末試験の後、漱石の英語の試験をしくじった学生がいて、落第すると奨学金の支給が 打ち切られるということで、彼がどういうわけか、級友たちの口利きの委員のようなことを仰せつかって、ひょんなことから漱石の私宅を訪れることにな る。

そこで、かねてから興味のあった俳句に関して、「俳句っていったい何ですか?」と素朴な質問をぶつけてみたのだ。
月並みな教師ならば、学生を小馬鹿にして月並みな返事か、あるいは、愚問だと端っから相手にしなかっただろう。

すると、漱石は、このように寅彦に答えた。

「俳句はレトリックの煎じ詰めたものである。扇のかなめのような集注点を指摘し描写して、それから放散する連想の世界を暗示するものである」と。

余計な枝葉や注釈を全て取り除いてエッセンスだけにして、しかし、それでは抽象的な世界になるが、そこから、鮮やかなイメージが積乱雲のようにむくむ くと湧き出るのが俳句だというのである。扇のかなめに俳句を喩えるところが、漱石らしい発想で素晴らしい。しかも、級友のために下駄を履かしてもらい に来た学生の質問に、本質を鋭く突く答えを、至ってきまじめに答えるところが流石だ。

それを聞いた寅彦は「急に自分も俳句がやってみたくなった」と、句を作って漱石の自宅を訪問する日々が続くことになる。
漱石はそれぞれの句に丁寧な短評をつけ添削を施したという。

漱石はその後、イギリスへ留学するが、帰国後、東京帝大の学生に進学した寅彦と再会することになる。こうして高校時代に出会った漱石は寅彦の生涯の師 となった。また、俳人、正岡子規との交友関係も漱石の人脈から生まれた。
『吾輩は猫である』に登場する水島寒月や、『三四郎』に登場する野々宮宗八のモデルが寅彦だといわれている。

教師と学生の出会いは偶然の要素が強いが、高校時代にこれほど素晴らしい二人の教師に出会えたことは寅彦にとって本当に幸運な出会いだったろう。

寅彦は五校時代に、もう一人、自分の人生で大切な人と出会った。
名作「団栗(どんぐり)」に登場する若い妻、夏子だ。
高知と熊本の間で、二人は長い手紙を頻繁にやりとりした。
結婚後、3年して、高知と熊本で離ればなれだった二人はようやく東京で同居できるようになった。そして、17歳の幼い妻には新しい生命が宿っていた。 寅彦もまだ21歳、人生でもっとも多感な時代だ。

「団栗」は、突然、吐血した妻の描写と、それを見た寅彦の驚きから始まる。

暮れの12月から翌年の2月まで、妻とのささやかな幸福な時間をしみじみと描写している。
妻は当時不治の病であった結核に冒されていた。
妻の病が小康を得て、医者の許しが出て、家の近くの小石川植物園に行くことになり、夏子は大喜びする。
しかし、出かける間際になって髪を気にして家から出てこない夏子、
待ちあぐねて先に出て行ってしまう寅彦、
ちっとも来ないので業を煮やして戻ってみれば、あんまりだと奥で妻が泣いている。

寅彦はわざと妻に素っ気なくして、距離を少し置きながら、
でも、妻を見る視線がとても優しく温かい。
意識的に描写が抑えられていて淡々とした簡潔な文章なのに、

時折、はっとするほどの美しい文章がちりばめられていて、
いくつかの場面が、鮮やかな映像となってよみがえってくる。

睡蓮もまだつめたい泥の底に真夏の雲の影を待っている。

かけがえのない人との、穏やかな冬の一日の思い出がとてもいとおしく心に残る。

植物園で、夏子は足を止めて、どんぐりを拾い始める。
自分の「ハンケチにいっぱい拾って包んでだいじそうに縛っているから、
もうよすかと思うと、
今度は『あなたのハンケチも貸してちょうだい』と言う」・・・

「どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた」・・・

そして、妻の忘れ形見の6つの娘(貞子)を連れて再び植物園を訪れる描写が続く。

「大きいどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃん」と
出たらめの唱歌のようなものを歌って飛び飛びしながらまた拾い始める。

余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはない が、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。

「団栗」には書かれていないが、「妻の終わりの悲惨」とはこういうことだった。

植物園を訪れた半月後、夏子は高知に療養生活のため戻ることになる。
5月に子どもを産んだ後、娘の貞子は寅彦の実家に引き取られ、母親は高知港の近くの桂浜に一人で隔離された。寅彦は子どもを連れて見舞いに来るが、子 供に結核が伝染するために、遠くから手を振った。
夏子も、それに答えて、涙を流して大きくハンカチを振り返したそうだ。

二人は五校時代のように、再び引き離され、東京と高知の間で長い手紙を頻繁にやりとりした。
つかの間の同居生活の後、再び夫と引き離され、初産で生まれた娘すら抱けない孤独を、夏子はこのように寅彦に切実に訴えている。

「自分の境遇は波打ち際の落ち葉のようなもの」

そして、翌年、夏子は20歳の誕生日の前に桂浜で孤独に亡くなる。

「始めの妻の悲惨」とは、何なのだろうか?

時代は、1861年まで遡る。永福寺門前の「井口事件」が土佐で起こった。
下級武士(下士)であった中平忠次郎が上士・前田の肩にぶつかったことが原因で、連れの上士・山田広衛が中平を殺害したことがこの事件の発端だった。
中平に同伴していた宇賀喜久間は、忠次郎の兄・池田寅之進に知らせると、激高した池田は酒に酔った山田を切り倒し、その後、池田と宇賀は切腹すること になった。
宇賀喜久馬の切腹で介錯をしたのは、喜久馬の実兄であり、寅彦の父親であった寺田利正だった。

司馬遼太郎の「龍馬がゆく」では、下士と上士との激しい対立が土佐藩では絶え間なく続き、これが遠因となり龍馬が脱藩する経緯が記されている。

関ヶ原の戦いで勝利をおさめた山内家は、土佐に入り長曽我部家にかわって支配することになった。下士の多くは、土佐の長曽我部の遺臣で、彼らは、上士 である山内家に幾度か反乱を起こし、この対立は幕末までずっと継続していく。

父親の利正は、上司である陸軍中将の阪井重季(後の貴族院議員で富士生命社長)から、娘の夏子を寅彦と結婚させることで寺田家の存続と安泰を望んだ。
封建社会の厳しい掟の中で、実の弟の切腹の介錯をすることになった利正にとって、江戸から明治にかわっていたとしても、このような政略結婚は家を存続 させる上で最良の方策だと考えたのだろう。
寅彦と夏子が若くして結婚をしたのは、また、結婚後、郷里から経済的な支援を受けられたのにはこういう理由があった。家と家の間の結婚という考えが当 たり前であった時代に、若い二人はそれを運命として受け入れるしかなかった。
しかし、二人が運命を乗り越え、強い絆で結びつけられたのは、寅彦の心遣い、繊細さ、温かみと、人間的な深さがあったからだろう。

寅彦の「吉村冬彦」のペンネームの冬彦とは、茶目っ気あふれる寅彦が、愛する夏子からつけた名前だ。
寅彦にとって夏子とは青春の頃の鮮烈なイメージだったのだろう。

療養の一日を綴った日記から、寅彦は、正岡子規が主催する「ホトドギス」に奈津女と言う名前で投稿し、それを見た夏子は亡くなる直前、涙を流して心の 底から喜んだそうだ。

好きなもの、 いちご、 コーヒー、 花、 美人、 懐手して宇宙見物

寅彦の生きとし生けるものに対する深い愛情と、飄々とした人柄、大らかで優しいまなざし、
子供の頃、初めて、「団栗」を読んだとき、寅彦のような温かな人間になりたいと心から思った。

昨年(2011年)の8月、父の墓参りに高知を訪れたとき、寅彦と夏子の墓を訪ねた。
高知市の住宅地を抜けて裏山を上ると、市街が見渡せる小さな高台に墓はあった。
夏子の小さな墓は寅彦の隣に寄り添うように立っていた。

竹藪に一陣の風が迷い込むと、笹が擦れ合う小さな葉音がした。

それはまるで、百年前の在りし日の、遠い思い出を懐かしんで、
二人がささやきあう小声のように私には聞こえた。

寅彦にとって、鮮烈な夏の一瞬は、この場所で、永遠の夏の記憶になったのだろう。

どんぐりを夏子の墓前にそなえて、二人の語らいの邪魔にならないように、
私は、そっとその場を後にすることにした。



寅彦が夏子とともに訪れた小石川植物公園の温室。百年前と同じ場所にあった。椰子の木が天井に当たるくらい高く伸びていた。寅彦はこのように温室を 描写している。「活力の満ちた、しめっぽい熱帯の空気が鼻のあなから脳を襲う。椰子の木や琉球の芭蕉などが、今少し延びたら、この屋根をどうするつも りだろうといつも思うのであるが、きょうもそう思う。」


二人の墓は高知市の市街が見渡せる場所にあった。


    

                      寅彦(右)と夏子(左)の墓