先生のコラム

アランの幸福論「欲すれば得る」とは


 神田の古本屋店主のおじいさんと思わず目があった。学生時代よく読んでいた書物をもう一度読み直したいと、目に付いた昔懐かしい哲学書 などをしこたま集めて購入しようとしたら、その本のタイトルを見て、おじいさんが親しげに私に話しかけたのだ。

そうなんですよ! 若い人が哲学書を買っていくんですよ。
今までは、大学で専門にしていたような人だけだったんですが、 哲学書を探す普通の学生が震災後から増えてきました。

満面の笑みを浮かべて、ニコニコと私におじいさんが語りかける。 こんなこと、この20年、絶対になかったとしみじみ語る。

へえ、そうなんですか?

「アランの幸福論」などが結構でています。 私はなんだかうれしくなって、こっくりうなずき、微笑みをかえしてその場を立ち去った。 春の陽気に包まれた通りをゆっくりと歩きながら、15歳の時に読んだ「アランの幸福論」のことを
思い出していた。

アランの幸福論に、「欲すれば得る」という言葉がある。
短い文章だが、しばらく立ちどまって「人生」を深く考えさせる重い内容を含む。
生き方を根本的に変える力を持つ、きびしくもあり奥行きのある言葉だ。
爾来、この言葉は、私の精神の支柱に深く根付いた言葉になった。
人生の深い開口部を観るような経験だった。

アランはこのように語っている。
大佐で終わった軍人は、本当は大将になろうと欲しなかったのだ。もし出世するのに不正を行う必要があるなら、不正を行えばいいのであって、良心に従っ て出世を断念したなら、出世しない姿が彼自身の真の姿である。

「欲すれば得る」とはどういうことか。
欲しいものは何でも手にはいるという意味である。
人は真にそれを欲しがれば必ず手に入るものだというのである。

しかし、人は、いくら欲しいと願っても世の中には手に入らぬものが一杯あると思っている。
いや、欲しくても手に入らぬものばかりなのが現実だと誰でも考えるだろう。
就活で、ネットを通じてエントリーシートを提出しても、相手は自分の顔すら見ようともしないで、ただただ機械的に紋切り型の断りの文面を送信する。
自分という存在は一体、何なのか? 
欲しいと心から思っても、一顧だにされないのが現実だと学生は非難するかも知れない。

だが本当はその反対だとアランは言うのである。その理由はこうだ。
人が自分の手中におさめたものは、それを人が欲しがったからであり、手に入らなかった諸々は、
人が、実はそれを欲しがらなかったからだという。

いや、欲しかったにもかかわらず手に入れられなかったものは沢山あると、人 は言うだろう。
しかしそれは本当に、百パーセント欲したものだったかとさらに反論するのである。欲しいと思ったのは、彼にそうとはっきり自覚できた意識の一部であ り、無意識にそれを欲しがらなかった部分があって、結局はそちらの部位が優位を占めた結果ではないかというわけである。意識的には欲しても、無意識裏 にそれを欲しがる自分を否定するものが優位に立ったから、手に入らなかったものだということになる。

「大佐で終わった軍人は、本当は大将になろうと欲しなかったのだ」というのはそういうことを意味する。
すべての条件を考慮に入れれば人の本音は自分の実行した行為にだけ表れるものであって、実行しなかったこと、あるいは手に入らなかったものは、その人 の欲しなかったことなのだという冷めた認識論である。
ここには現実に行われた行為だけが、唯一の確実な存在証明だという一種の現実主義が示されているが、この現実主義は、夢や理想を否定しようとする意図 ではなく、自己に対する、あるいは人間や人生に対するいたずらな甘えや買いかぶりや感傷や妄想を廃する、冷静な生き方の模索から発している。

磯田光一著「好きなことば『人生に誤解はない』
磯田氏も、アランの「欲すれば得る」と同じことを語っている。
「人生に誤解はない」とはどういうことなのだろうか。
 たとえば、自分では親切のつもりでした行為が、他人からは損得づくの行為と誤解されたというように「誤解」という言葉は用いられる。真意が曲げられ て受け取られるという意味で、「誤解」は客観的真実に対する主観の誤差を表す言葉になっている。たとえ「曲げて受け取る」ほどではなくとも、客観と主 観との避けがたいギャップが「誤解」を生む、というふうにわれわれは普通思いこんでいる。
だが、磯田氏は、「誤解されている状態も、この世の動かしがたい現実なのだ」と言う。われわれが常識的に考えているような真実とか客観は動かしがたい ものとかいう考え方に立っていないのである。
こうした考え方によって見ると、たとえば私が誰かにものを与えた場合、私は好意で与えたつもりだが、他者はそうとは見なかったとしても、私が真実で他 者が誤解というふうには分けがたくなってくる。あるいはまた、私が自分で自分を親切で私心のない人間だと思っていたとする。ところが、他者は私を気弱 な自己中心主義者と見る。果たしてどちらが正解でどちらが誤解と言い切ることができるだろうか。ここで唯一の確実なことは、私が誰かにものを与えたと いう行為であり、ここに私という人物が存在するということだけである。
私が自分の行為を親切な気持ちからしたと思うのは、他者が私の行為を下心があってしたと解釈するのと同様に主観なのである。同様に、自分を親切で私心 のない人間と考える主観に正当性があるとしたら、私を気弱な自己中心主義者と見た他者の主観にも正当性があるといわなければならなくなるだろう。
ただの「間違い」や「勘違い」とは異なる確かな現実という意味での正当性である。他人からそう「誤解」される自分もまごう方なく自分だという意味で誤 解ではなく正解の一つだというのである。

 このように、人間社会の中ではものの見方が極めて相対的で絶対ではないという真理を見事に示している映画が、黒澤明の「羅生門」だ。この映画の原作 は芥川龍之介の「藪の中」という小説である。
人里離れた藪のなかで、侍の若い妻女が盗賊に手込めにされる。同行の夫はその場で殺されたか自ら命を断ったかする。盗賊は捕らえられ、侍の妻女は保護 されて検非違使から尋問を受ける。侍は自殺したのか殺されたのか、殺されたなら誰が殺したのかが焦点になるのだが、 盗賊の白状、妻女の懺悔、それに侍の死霊が語る物語が、三者三様にその場を再現して噛み合わない。それぞれの言い分が食い違って物語は一致点を見いださぬままに終わる。普 通ならばここで三者三様の告白から「一つの真実」を発見しようと、推理の興味を働かせるところだが、この映画は「藪の中だ」という突き放した結論を示 すだけである。
 小学生の6年の頃、この映画を初めて観たが、結論が収束せず、ただ、観客を放り出すような終わり方に戸惑った。しかし、人生経験を重ね、人間社会と はまさにこのようなものであることを私はその後、何度も実感させられた。
サイエンスの中に住む人間は、とかく、この世の中の真実は一つであることを理想として、現実社会をそのように追い詰め、思わぬしっぺ返しを食らうこと がある。私は何度も、何度も失敗し続け、ようやく、小学生の頃、観た「羅生門」の真意が理解できるようになった。
「羅生門」とは、真実は一つだけというような単純な認識論とは全く異質な、救いようのない、現実世界の深淵を覗かせる恐ろしい映画なのである。現実は こうなんだと、真実を求めてつかんだと信じた手の中から真実はスルリと逃げて次々と無節操に真実が変わってゆく堂々巡りの狂乱を、人はただ演じている だけなのかもしれない。

 「現実社会は多様で相対的なものであること、その中で誤解されている状態も、この世の動かしがたい現実」だと磯田氏は言う。こちらに正解があって、 向こうに誤解があるというようなものではなく、誤解もまた人生の正解の一つだというのである。普通に思っているような、<たった一つの真実>とか、 <動かしがたい真相>とかいった絶対性を筆者は信じていない。信じるに足るのは、現実は多様で相対的だという認識である、そうした自在な現実認識を示 す言葉として、筆者は『人生に誤解はない』というのである。
 しかし、だから、現実は不確実、不確定な世界だと、悲観したり、絶望したり諦めたりしているわけではない。むしろ逆に、現実をそうと認識することに よって、言い訳の聞かない人生のきびしさと奥行きとを示して、それゆえ人はいかに生きるかと問いかけているのである。甘えや感傷を廃した現実認識に裏 打ちされた肯定の思想と、さらにはそこから生まれる積極的な行為への意志とを秘めた、強くてほろ苦い言葉である。
 「真実は一つ」というような頑迷な常識論から、ひょいとこうした観点に身を置いてみるならば、人はそこにかつて見なかった、人生の、あるいはいかに 生きるかの問いに答える、一つの開口部を見ることもできるだろう。
磯田氏は次のように言う。
「本当は何々をしたかった、という言葉を私は好まない。すべて条件を考慮に入れれば、自分の実行した行為はすべて本音であって、それ以上でもそれ以下 でもない」と。
ここには感傷や甘えを排除したきびしい自己認識と、そのきびしさに裏打ちされた優しい肯定の思想と、さらに言えば、積極的な行動への意志とが秘められ ている。この言葉の真意は、まさにアランの言葉「欲すれば得る」に通じるのである。

「欲すれば得る」に近づくにはどのようにすればよいのだろうか?
自分をいったん、クールダウンして、俯瞰してみよう。
主観から脱却して、徹底的に自分を客観視してみよう。
客観的に観て、最後に自分に残ったものだけが自分の真実であり、自分の生き方の核心的なものになる。

人生の苦悩から「解脱」に至る仏陀の生き方と精神の到達点を美しく描いた、ヘッセの「シッダールタ」を読んで、人生の入り口で出会ったアランの言葉 「欲すれば得る」は、実は、仏教でいう「解脱」そのものであることに、人生の悟りとは悲しいくらい、ほど遠い下界で彷徨う私ですらようやく理解できる ようになった。

「空」とは自分が観ているものは常に変化しているかりそめの世界だと思え、という仏陀の教えだ。
世の中を「空」と観るためには客観的に自分を、ものごとをとらえることが大切だと仏陀は説いた。
しかし、それは人生では容易ではない。様々な煩悩に人はとらわれているからだ。
煩悩とは、様々な欲望がフィルターになって、物事を自分の都合の良いように、自分中心に作り上げてしまうこと。そこから脱却し、主観を捨て徹底的に自 分を客観視することこそが「解脱」であることを意味している。

アランの「欲すれば得る」と、仏陀の教え「解脱」とは、自分を徹底的に客観視せよという意味において表裏一体の言葉なのだ。

かくあるはずの自分などというものはなく、自分とはかくある自分以外にないという醒めた自己認識こそ、
自分の限界を諦めることではなく、行為する自己に自分を仕向けるテコともなるのである。

「欲すれば得る」とは、これまで平面的に彷徨っていた自分を、重力に逆らい縦方向に飛翔させる力強い起爆剤になる言葉だ。

後悔しない人生を目指した言葉が「欲すれば得る」なのである。