先生のコラム

もう一度、廃墟の中からやり直そう


 東北地方太平洋沖地震により、多くの方々が犠牲になられたことに深く哀悼の意を表します。
東北地方出身の多くの研究者を存じ上げています。彼ら、彼女たちは、実直で忍耐強く、意志強固で、粘り強い。これほど研究者向きの性行を持っている人 たちはいないのではないか、という印象を昔から抱いていました。ですから、復興にかけるエネルギーはやがてふつふつと湧いてくるに違いありません。 私たちは陰ながら応援したいと思います。


トルストイの 「アンナ・カレーニナ」の冒頭に有名な一節があります。
「およそ幸福な家庭はみな似たりよったりのものであるが、不幸な家庭はみなそれぞれに不幸である。」


東北大震災でお亡くなりになった人々の数が日に日に増していきます。 数字の大きさに日々驚いています。しかし、これは単なる数字にすぎません。このことの本当の意味を理解するには、ひとりひとりの不幸を理解し感じとる必要があります。


NHKの被災者のTV報道を観ていました。

80歳くらいの白髪の老人が、高台で瓦礫となった自分の家を遠くに見つめながら呆然とした状態で座っていた。長年連れ添った奥様が身体障害者で、津 波の恐ろしさは身にしてみているので、娘とともに妻を、津波に襲われる前にいち早く高台に避難させようとしたが、娘と老いた私の力ではどうしようもな かった。妻を途中で置き去りにせざるを得なかった。妻は黒い濁流にのまれていった。後で、役所から回ってきた死亡者リストの中に、自分の妻の名前があ ることを知って娘とともに抱き合って号泣した。


瓦礫となった小さな家には、小さな家族の歴史があったのでしょう。そこは、初めて生まれた娘を肩まで上げて夫婦で喜んだ小さな場所だったのかもしれ ません。一家が笑い合うささやかな団らん。時には夫婦げんかもしたでしょう。長年育んだ家族の小さな樹が根こそぎ奪われて一瞬の津波にのまれてしまっ た。
老人は呆然としながら、家族の団らんの記憶を手繰り寄せていたのでしょう。


50くらいの女性が瓦礫をさまよい、夫の泥だらけになった靴の片側を見つけて大切そうに抱きしめて感情を押し殺したようにさめざめと泣いていた。
夫は津波に流されて見つからないのだそうです。


若い夫婦が二人の子供を亡くして、瓦礫の中から家族のアルバムを見つけて、子供が写っている汚れた箇所を、必死で、指でふいて子供を捜していた。
そこに現れたのは、かつて幸せだった、子供達を囲む温かな家族の肖像でした。

人は、なんによって生くるか? 「青べか物語」の舞台を訪ねて

妻を救おうとして救えなかった老人、とても惨めで小さな後ろ姿を見つめながら胸がふさがれる思いだった。車を走らせて行き着いた先は浦安だった。
ここは、山本周五郎の「青べか物語」の舞台です。22年ぶりにやって来た場所です。私は石灰工場の川下で釣りをしていた。……「人はなんによって生く るか」私はそちらへ振り向いた。「人は」とその男はまた云った、「なんによって生くるか」…「なんですか」と私は反問した。

その男は現場監督が怠けている労働者を見るような眼で私のことを見、そして、ひと言ずつ句切って、同じ言をはっきりと云った。このあとを書くと人は 信じなくなるだろうが、事実を云うと、男は右手の拳を私のほうへぐいと突き出したのである。私は危険を感じて身を反らし、男は突き出した拳を上下に揺 すった。これを見ろ、といったような手つきなので、その拳を注意して見ると、握った中指と人差し指とのあいだから、拇指の頭が覗いているのであった。

7年前、男は出稼ぎに行った。その留守に、妻と4人の子供が赤痢かなにかで全員急死した。だが、彼に連絡は取れない。そのうち帰ってきてそれを聞く と、男はいっぺんに気が抜けたようになって、半月ばかりぼんやりしていた。

男は実直な職人で大変な子煩悩で家族思いだった。家族を失い、悲しみの深みに沈んだ男が指し示した拳は、性の営みによってつくりあげたかけがえのな い人生だった。そして、自らつくりあげた人生を一瞬にして失ってしまった。彼がそれによって生きていた人生を、彼は人生を失うことによって、初めて 「人はなんによって生くるのか」という問いに答えを与えることができたのだ。
この心の叫びは、フェリーニの名作、「道」のジェルソミーナを失った夫ザンパノの海辺での叫びに通じる。

戦後の焼け野原からの復興
 第二次世界大戦、多くの日本人は希望のない絶望的な戦争と敗戦で心身ともに疲れ果てていました。私たち日本人は、敗戦後、国中が瓦礫となった廃墟の 状態から復興しました。
当時、GHQ(進駐軍)の通訳として日本にやってきた、ある日系人の話を聞いたことがあります。


彼は自分の祖国が荒廃した地に変わっていたことに深く心を傷めていました。
ある日、通りで10歳くらいの少年が靴磨きをしていたのを見つけて、自分の靴を磨かせたそうです。少年は、頬は痩け、破れたシャツから汚れた肌が晒さ れていました。靴を磨いていると、腹の底から、グーという音が聞こえたので、その日系人は笑って、
「坊や、お腹が空いているのかい」と尋ねたのです。
少年はこっくり、うんと頷き、日系人は鞄からコッペパンを取り出し、少年に与えたのです。すると、少年はもらったパンを破れた紙で大切そうに包み、自 分のズタ袋にしまったのです。
不思議に思って、日系人は、もう一度、少年に尋ねました。
「坊や、本当はお腹が空いていないのかい?」
少年はお腹を押さえながら答えました。
「うん、でも、家にはボクの妹がいるんだ。妹はボクよりもっとひもじい思いをしているから、妹のためにとっておくんだ」
この国は物質的に確かに荒廃してしまった。瓦礫の山になった。しかし、精神は全く荒廃していない。たった10歳くらいの男の子が自分よりも弱い立場の 妹を思う心の純粋さに彼は深く心を動かされたのです。
「この国は必ず近いうちに復興することができる」と確信したのだそうです。そして奇跡の復興を経て日本はアメリカに次ぐ経済大国になりました。
この日系人とは、1974年から1986年にかけて第3代ハワイ州知事を務め、日系人として、またアジア系アメリカ人として初めて州知事となった ジョージ・アリヨシでした。

1995年は日本の最悪の年

1990年から95年にかけて戦後最高の段階に達した日本の経済がその後予測のできなかった挫折を体験して、奈落の底に墜ち込んで行った。その最初 の足音を聞いたのが1995年でした。1995年とはバブルが崩壊した年だった。この年は、日本に対して深い絶望と挫折を感じた年でした。
物があふれ、そのために人間は大切なことを忘れてしまった。象徴的な年が1995年です。
物質的には頂点を迎えた年です、しかし、私の目には、精神的にひどく荒廃した時代に映りました。
阪神淡路大震災が起き、オウム真理教の戦慄すべき事件が起きた年です。その後、北朝鮮拉致事件が発覚し、横田めぐみさんがこちらに助けを求める悲しい まなざしを向けた写真を大勢の日本人が見ているのにたった一人の少女すら救えなかった、誰も何もできないという挫折感と閉塞状態が続いた。
1995年、およそ日本人とは思えない品格を欠いた人間がわき出した時代でした。強烈な拝金主義とエゴイズムがはびこった時代。あの時代的背景があっ たからこそ、オウム真理教の異様な事件が起きたのでしょう。オウム真理教の若者達がこの時代に対するアンチテーゼとして狂信的な宗教に帰依していっ た。しかし、両者は同じ精神的退廃をネガとポジの関係で表したものに過ぎなかった。
この時代に、生理的嫌悪感を抑えることができなかった。ジョージ・アリヨシとは全く逆に、この国は必ず奈落の底まで墜ちていくと確信した年です。


アメリカの大学で、イラン人の少女と出会いました。なにがしかの事情があって、イランから家族とともにアメリカに来ざるを得なかった。イランではか なりの地位にあった父親が、アメリカでは下層の職にしかつけず、一家を支えるために朝から晩まで必死に働いているので、自分は甘えているわけにはいか ない。
だから奨学金をとるために必死に勉強していました。アメリカでは、911のテロがあり、中東出身というだけで白い目で見られてしまう。その中でもイラ ンはイラクとともに最大の敵対国の一つです。相当に肩身の狭い思いをしていたのは間違いありません。彼女の唯一の趣味は映画で、私が世界の様々な映画 を知っていたことに驚き話が弾みました。
 「映画が趣味だというのに、『ローマの休日』やチャップリンの『街の灯』や『キッド』さえ知らないのか?!」と茶化したので、ムキになってレンタル ビデオ店で借りてきた観たらしく、
「モノクロ映画でこんな素晴らしい映画があるなんて映画を観るまで知らなかった」と目を輝かせていた。


実は私の中でも、イラン人から連想されるイメージとは、上野公園で大勢が行水をするカラスの様な群衆であったり、麻薬密売人、あるいは過激なイスラ ム原理主義者でしか、ありませんでした。しかし、少女と話せば話すほど、彼女の大きなクリッとした瞳は、アメリカで出会った他の誰よりも澄んでいて、 心は繊細で家族思いの愛情の深い女性であることがわかりました。
モントリオール世界映画祭でグランプリを受賞したイランの巨匠・マジッド・マジディ監督の「運動靴と赤い金魚」を観て、総てが理解できました。
そこに描かれているのはジョージ・アリヨシが会ったあの靴磨きの少年だった。私はこの映画を観て、「イランは確かに、現在、最悪のところまで来ている かもしれない。しかし、このような映画が民衆から愛されているならば、必ず、近いうちに復興できる」と確信しました。
少女は、自分はアメリカではほとんど理解されないのに、自分と全く異なる地から来た一人の極東のアジア人がイラン人を理解してくれることに驚きを隠せ なかったようです。
とんでもない!私は、マジッド・マジディやアッバス・キアロスタミ監督の映画を観て、このような映画を愛するイラン人の魂の深さと純粋さを知って、彼 らに対して抱いていた偏見を深く恥じただけなのです。
そこに描かれている世界は、デシーカの「自転車泥棒」の世界だった。
彼らは確かに貧しいが、人間の輝ける品格がある。


日本人の多くの人々が、今の日本は戦後、最悪であると感じているのではないかと思います。世界は順当に経済成長して来たのに日本だけが16年間停滞 している。ついに中国に抜かれ世界第3位になった。大新聞やテレビの報道は残念ながら目を覆うほどひどいレベルのものばかりです。メディアの責務を果 たしているとはとても思えません。政治は与党も野党も驚くほど貧困で、まるでズボンつりをしてランドセルを背負った小学一年生の坊やたちが国の政を やっているとしか思えません。官僚は、まるでコントロール不能になった原発のようで、炉心溶融が起き、政治は全く官僚を制御できなくなっている。日本 の将来を決定する勇気を誰一人示すことができない。老人は自分たちだけ逃げ切り、若者にすべての借金を負わせようとしている。
芸術の分野でも、文学や映画などは価値あるものを生み出す力を全く失ってしまった。「人はなんによって生くるのか」という人間の根源的な問いに対して 答えを模索する作品はなにもない。震災でさらに奈落の底に落ちてしまった。多くの人が悲しみの中で肩を落としています。凄まじい閉塞感が漂っている。

しかし、私は全く違うと思うのです。日本はもうすでに最悪のところは16年前に通り過ぎているのです。そのことに多くの人が気づかなかっただけなの です。現実の時間の進行に感覚が追いついていなかった。ただそれだけなのです。

すべては、惨めさを感じるところから始まる
    16年前、私はこの国に絶望しました。しかし、今は、全く逆です。16年前に比べて希望を抱いています。安っぽい逆説を弄しているわけでもなんでもありません。人々の悲し みの瞳の奥にほのかの希望が見えます。
その答えは簡単です。

ようやく多くの人が生きることの惨めさを感じ始めたからです。

私の人生のバイブルである、パスカルの言葉を引用します。
「人間の偉大は、彼が自己の惨めさを知っている点において偉大である。樹は自己の惨めさを知らない。ゆえに、自己の惨めさを知るのは惨めなことである が、自分は惨めであることを知るのは偉大なことである。」

なぜ、惨めさを知ることが偉大なことなのでしょうか?
人間は一茎の葦にすぎない。自分に降りかかった人生の重い災厄や苦難を知ることは、精神的に脆弱な人間でない限り、惨めな状態にとどまっていないこと を意味する。あらゆる知恵を振り絞って、その状態から脱出しようと模索する。
自分をいったん、状況の外に置き、自分が置かれている惨めな状態を冷徹に見つめることで、よりよい高みに自分を飛翔させようとする。こうした理想主義 的な努力にこそ、人間の知力、意志力、感受性を鍛え、生きていく力を養い育てる源がある。不断の努力を続けることにおいてこそ、人間の主体性に発する 精神というものの確かな存在の証が現れてくる。

 16年前は誰も惨めさなど感じていなかった。バブルの余韻に酔いしれていた時代です。しかし本当に惨めだったのは1995年なのです。あらゆる意味 で精神が荒廃した時代だった。ようやく、16年の時間差を経て、皆が惨めだと思うようになっただけのことなのです。
大地震と大津波によっていとも簡単に三陸の美しい風景と多くの人命は消えていった。原子力発電によって支えられていた堅牢なはずの都市生活は大打撃を 受け、目には見えぬ放射能に対する不安を抱きながら空を見上げる人々。物質的に強固なはずだった文明に亀裂が入ったとき、それに守られていた精神は他 のどの時代に比べてはるかに脆弱になっていたことにようやく人々は気づき始めた。物質的な豊かさゆえに、「人はなんによって生くるか」という人間の根 源的な問いを喪失してしまっていた。
 人間に降りかかる絶え間ない絶望的な災厄や苦難から惨めさを感じることは、実は根本的な生き甲斐を与え、人間性に自由と限りない尊厳の品格をもたら す源となる。多くの日本人が16年の時差を乗り越えてようやく惨めさを感じるようになった。

スクラップからビルドへ

 戦後のシステムがあらゆるところで崩壊していたのに、私たちは、スクラップアンドビルドが長い間できなかった。日本人は、ビルドはできても内側から スクラップすることはできない保守的な農耕民族なのです。明治維新も第二次世界大戦後の改革もすべて外圧というスクラップがあって初めてビルドができ た。この16年間は戦後のシステムのスクラップのための非常に苦しい期間でした。それが震災によってようやくスクラップできる時代がやってきたと考え ればいいのです。今回の大震災は、神様が日本の再興のために与えた試練だと思えばいいのです。今度こそ、神様の啓示を聞かなければこの国は確実につぶ れるでしょう。嵐の中で、優しさの羽を啄む小鳥であっては駄目だ。こういう時代にこそ、若者たちの鋭い感性と豊かな知性と発想力が必要とされるので す。

 有史以来、いく度も災害に見舞われた日本人は、一致団結して困難を乗り越えてきた民族です。
そのため、今回の大震災は、日本人の中に深く眠っていたDNAを覚醒させることになるはずです。

    戦後、国中が焼け野原になりました。日本国民全員が心の底から惨めさを感じました。あのとき、家も財産も何もかも失い、家族とともに悲嘆の涙に暮れたが、「もう一度、廃墟 の中からやり直すしかない」という父親たちの一言でみんなが我に返った。 だから、今こそ、東北で震災に遭われた方々と、この日本に向けて「もう一度、廃墟の中からやり直そう」と、心から呼びかけたい。 これこそが、今回、震災でお亡くなりになった多くの方々に報いるために、私たち日本人ができる唯一の道だと思います。

然れども朝陽を俟ち望むものは新たなる光を得ん

彼らは鷲のごとく翼を張りて登らん

走れども疲れず

歩めども倦まざるべし