先生のコラム

「大見当識」とパンセ


1964年、ペンジアスとウィルソンは、ベル研究所にある新型のマイクロ波受信アンテナを使って一連の試験観測を行なっていた時に宇宙背景放射を発 見した。この発見によって宇宙論をめぐる意見はビッグバン仮説を支持し、1978年、ノーベル物理学賞を受賞しました。私は、このことを知ったとき、 宇宙の開闢の瞬間が存在すること、宇宙の隅々まで響きわたるビッグバンの残響を二人の物理学者が受信した事実を知り、鳥肌が立つくらい驚愕しました。 宇宙の誕生があるということは終焉もあるということを意味している。私たちは一体どこから来て、どこに行くのか? 深い疑問に捕らわれました。


学問とは「大見当識」を知ることだと私は考えます。見当識というのは、たとえば意識を失って救急車で運ばれたと き、最初に救急隊員が尋ねる質問です。今はいつ、ここはどこ、あなたはだれ。そんなこと誰だって普通答えられるじゃないか。しかし、「今」は、地球が 生まれてから現在に至るまでの時間を考えたとき、いや、この宇宙の開闢以来、さらに未来がどのようになるのか、その悠久の時間の中でどの一点にお前は いるのか、本当に答えられるのか? そして「ここ」は地球のどこであるのかは言えても、太陽系の、銀河の中の、大宇宙の中のどの一点であるのか、お前 は答えられるのか。さらに私たち人類は、500万年前存在していなかったが、この36〜38億年の生命の悠久の歴史の中で、これからどのように変わっ ていくのか、その中で「お前は何者か」が答えられるのか? 私という原点は、一個の受精卵から出発したが、一体、どのようなボディー・プラニングを経 て、私が誕生するのか? 簡単に答えられると思っていた当たり前のことが、その次元を宇宙の空間や宇宙の開闢の時間、生命の誕生と進化の歴史の流れか ら考えると何も答えられなくなってしまう。「大見当識」を考えたとき、ようやく、パスカルの語る「パンセ」の意味がわかるようになりました。
そう、人間の存在はパスカルのいう葦にすぎないのです。
人間は一茎の葦に過ぎないとは一体どういう意味なのでしょうか?



『パンセ』


人間は自然の内でもっとも弱い一茎の葦に過ぎない。


しかしそれは考える葦である。


人間という存在を押しつぶすのに宇宙全体は何も武装する必要はない。


風の一吹き、水の一滴もこれを殺すのに十分である。


しかし、宇宙がこれを押しつぶすときにも、

人間はこれを殺すものよりも一層高貴であろう。


なぜなら、人間は自分が宇宙から殺されるときに、自分が死ぬことを知っており、

宇宙が人間の上に優越することを知っているからだ。


空間によって宇宙は私を包み、一つの点として私を飲む。


しかし思考によって私は宇宙を包む。



パスカルとは、17世紀フランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家であり、「パスカルの定理」 「パスカルの三角形」を提唱した数学者として10代の頃から頭角を現した。パスカルが晩年に書いたパンセは多くの箴言を多数含んでいる。人間の存在は一茎の葦にすぎないの です。宇宙が人間を押しつぶそうとするとき、人間は自分を押しつぶそうとする宇宙を認識する。知るという一点において自分を押しつぶす宇宙を反対に包 み込んでしまう。だから、人間の偉大さとは知ること、思考することにある。


「大見当識」を知るということは、この大宇宙の中でお前はどの座標軸に今存在しているのかということを知り、自己が暗黒の大宇宙の中でいかに小さな 存在であるか、を知ることを意味しているのです。学ぶことは、自分が大宇宙のなかでどの座標軸にいるのかを問いかけることに他ならない。研究の世界を 通してつくづくこの意味の深さを実感できるようになりました。大宇宙の中での自分の小ささを知ることこそが自分を知る出発点であり、人間を偉大な方向 に向かわせる駆動力にもなります。サイエンスを通してこの大宇宙の不思議を覗いたとき、言葉を失ってしまうほどの畏怖と驚きを感じます。  


人間の知性はこの大宇宙の大暗黒の小さな、小さなマッチ棒の先の灯火にしかすぎないが、人間の偉大さは、自己が小さな生き物であるということを認識 することから出発する。つまり自己の小ささを認識できると言うことは裏返せばこの大宇宙の暗黒の大きさを知っていることに他ならないのです。それこそ が人間の知性なのです。それを知ったとき、人間はもはやarrogant(傲岸)ではいられない。大宇宙を前にしてmodest(謙虚)にならざるを 得ない。この大宇宙の暗黒を知らないignorant(無知)な人間は、自分の小さな灯火が全宇宙だと勘違いして、arrogantになる。「大見当 識」を知ることは、この大宇宙の中でお前はどの座標軸に今存在しているのかということを知り、自己が暗黒の大宇宙の中でいかに小さな存在であるか、を 知ることを意味しているのです。学ぶことは、自分が大宇宙のなかでどの座標軸にいるのかを問いかけることです。だから人間は一茎の葦に過ぎないので す。