先生のコラム

ゲーテの「ファウスト」から、カフカの「城」へ

―21世紀、私たち人類は生命の測量士から設計者になれるのか?―


 「ファウスト」はゲーテの代表作とされる長編の戯曲です。学問と知識に絶望したファウストは、悪魔メフィストフェレスと契約して魂を売りわたすかわ りに、地上の快楽を手に入れる。


 ファウストが何よりも希求したのは、「この世の奥の奥で統べているものが何者で あるのか、それが知りたい。それを極めてみたい」ということだった。それは天井の設計者(神)の意志と設計図とを知りたいということである。


だがファウストに許されているのは測量士になることだけである。そこでファウストはあたかも 測量士のように、哲学も、法学も、医学も、あらずもがなの神学までも熱心に研究し尽くす。 彼はできる限りこの世を測量してみたのだが、そのあげく、「おれたちには何も知り得ない」ということを悟る。そこで、彼はメフィストフェレスに魂を売り渡し、何とかして、 設計者へ近づこうとする。しかし、測量士にすらなれずやがて死を迎える。


カフカの小説「城」では、主人公「K」は測量士として、「城」に招かれる。


「K」は、城のある村にやってくるのだが、「K」を呼び寄せたはずの「城」と、思うように連 絡がとれず、いくら彼が「城」へ到達しようと努力してもなかなか近づけない。「城」は目の前に見えている。だが、「城」への道は彼に閉ざされている。 「城」は向こうの山の上にくっきりと見えるのであるが、そこへ向かって歩き出すと、道は城山へ通じておらず、ただ近づいてゆくにすぎない。そして近づ くかと思うと意地悪でもするように折れ曲がり、城から遠ざかるわけではないのだが、だからといっていっこうに接近してもゆかない。


カフカは人間をこのような測量士に見立てている。人間に許されているのは神が設計した世界を ただ測量することだけであり、どんなにあがいても 設計に参加することはできず、設計者の意志さえ知ることができない。 一方の「城」は測量士である「K」が城へ行くことを認めず、さりとて、きっぱりと拒絶 することもしない。カフカは、人間と神との間の不条理を、「城」と「K」との関係から、つまり設計者と測量士との関係から捉えようとしている。この点で、ファウストの主題 と、城の主題は一致する。


2003年3月、人類は、ヒトのゲノムに刻まれたすべての文字を解読するというゲノムプロ ジェクトの終了宣言を行った。このプロジェクトで、DNAに刻まれたAGCTからなる30億対の文字を解読することに成功した。これは天井の設計者の 設計図を端から端まで解読するような国家プロジェクトと言えるかもしれない。私たちは家庭のパソコンから、いつでも簡単にNIH(米国予防衛生研究 所)にあるBLASTと呼ばれるサイトに入り、ヒトのゲノムの遺伝子情報のすべてを手に入れることができる。しかし、これは、まるでロゼッタストーン に書き込まれた膨大な文字の羅列に過ぎない。DNA配列からアミノ酸配列に変換しても、タンパク質の様々なモチーフやドメイン構造がコンピューター解 析でわかるが、構造からだけではある程度、類推できても、細胞や個体レベルの遺伝子機能を正確に知ることはできない。生命科学の研究者ならば、一つの 遺伝子の機能を解明することですら大変な労力と根気を要する仕事であることをよく理解しているだろう。ゲノムのすべてが解読されたといっても、まだま だ未解析の遺伝子が数多く残されていて、ファウストや「K」のように、天井の設計者に代わって設計図をつくるどころか、全体を測量することもできてい ないというのが現状ではないのだろうか。しかし、この先、数世紀が研究に費やされれば、私たちは測量を終え、設計者に成り代わることは可能なのだろう か?


制限酵素の発見によって飛躍的に遺伝子工学は発展した。制限酵素の名前の由来は、大腸菌で、 ファージの増殖が制限されるという現象が確認され、そのような菌からファージ由来の外来DNAを切断する制限酵素が発見されたことによる。ファージは まるで月面着陸機のような形をして大腸菌の表面に着陸し溶菌する。制限酵素は、ファージ感染から自分自身の身を守るために大腸菌が開発した武器 (Leathal weapon)と言えるかもしれない。


しかし、大腸菌にとっての唯一の武器である制限酵素は諸刃の刀 でもある。侵入者を攻撃することはできるが、核膜で細胞質と分離されていない大腸菌自身のゲノムも同じ制限酵素によって攻撃されてしまう。一歩間違えれば、侵入者を刺す刀 で自分の首を切り落とすことになるかもしれない。そこで、大腸菌がさらに編み出した戦略というのは、予め、制限酵素で切断される制限酵素領域をメチル 化して保護しておくことだった。もっとも一般的な制限酵素としてEcoRIが存在する。EcoRIは以下のように6塩基のパリンドローム部位を認識し て切断するが、 同じパリンドローム部位を認識して切断する人工制限酵素を作製しようとしても、たとえノーベル賞クラスの世界最高峰のタンパク質工学の研究者、生化学者、構造解析の研究者 が集まっても、タンパク質ベースの新しい酵素を作り出すことはできていない。シクロデキストリンを利用した人工酵素の報告などはこれまであったが、新 しい機能性タンパク質を無から作り出すことはできない。なんと人類は、大腸菌が作る制限酵素をリコンビナントタンパク質として合成できても、大腸菌が 作った制限酵素と同等な機能を持つ酵素を新たな設計図を作り、合成することすらできないのが現状なのである。20億年から30億年前に進化の過程で獲 得したタンパク質と同等の機能を持つタンパク質すら人類最高の英知を持ってしても設計できない。

5'-GAATTC-3'  EcoRI  5'-G   AATTC-3'

3'-CTTAAG-5'   →   3'-CTTAA   G-5'


それはあたかも、「K」が「城」を目指して木立のあいだを登っても、深い霧に包まれた「城」 が一向に近づいてこない、あのカフカの「城」の話と似ている。