先生のコラム

シュレディンガーの「生命とは何か」


      


小学生の頃、手塚治虫の火の鳥を夢中で読んで圧倒されました。火の鳥は、手塚治虫のライフワークといわれている長編漫画です。古代から 超未来まで、地球や宇宙を舞台に、生命の本質は一体、何なのかが、手塚治虫自身の思想を根底に壮大なスケールで描かれる。未来編では、西暦3404 年、地球は滅亡し、人類のみならず生物は人間の愚行のために消滅してしまう。皮肉なことに、火の鳥の生き血を吸ったマサトは永遠の生を得てしまう。創 造主として試行錯誤をして生命体を創造しようとするのだが、ことごとく失敗に終わる。そこで、最後にコアセルベートを海に蒔いて、生命進化を化学進化 からやり直そうとする。生命は誕生するのだが、ちょっとした狂いからナメクジが知能を持ち進化し、人類は進化から生まれない。山の下から岩石が山の頂 上に転がり、翌日には整然とした世界に戻っている。エントロピー増大ではなく縮小する方向に世の中が逆行していく。その様子を見ながらマサトはだんだ んと精神がおかしくなっていく。

実は、このエントロピー縮小の方向に逆行するのが生命と生命進化の本質であると言えるのです。この問題を最初に指摘したのは、化学・生命化学科の学生であれば量子力学の基 本方程式である波動方程式でおなじみの天才物理学者・シュレディンガーでした。彼はベルリンからイギリスのオックスフォード大学に移ったが、1933 年にノーベル賞を受賞した後は、アイルランドのダブリンに移り、物理学に対する興味を失って第一線から退き隠遁生活を送ります。この間、彼の旺盛な知 的好奇心は衰えたわけではなく、彼の興味は生命科学に向かいました。

シュレディンガーはダブリン高等研究所での講義録をまとめ、1944年『生命とは何か』を著しました。実はこの著書に感銘を受けて、当時の多くの第一線の物理学者や化学者 が生命科学のフィールドに研究分野を変え分子生物学が生まれました。ワトソン・クリックのフランシス・クリック、ノーベル賞を2つ受賞したライナス・ ポーリングもそうです。タンパク質のαらせん構造などの業績もポーリングの仕事です。

シュレディンガーは、『生命とは何か』で、万物はエントロピー増大の方向へ進む、しかし、生命だけは、熱力学的平衡状態にはまり込んでしまうことが ない! しかし、死んだ瞬間から、大宇宙の森羅万象と同じように、宇宙の法則に従い、エントロピーは増大の方向に向かう。

ΔG = ΔH - TΔS

熱力学のギブスの自由エネルギー変化の方程式から、温度とエントロピーの積に勝るエンタルピー変化があれば、化学反応もエントロピー縮小の方向に向 かうこともある。生命進化をこの式に当てはめると、生命進化においてエントロピーに拮抗するエンタルピーって一体何なのか? と問いかけている。

この素朴で深淵な疑問は、リボソームの複雑な構造を見れば誰でも抱くはずです。2009年のノーベル化学賞を、細胞内でタンパク質を合成する小器官 リボソームの構造を解明した英ケンブリッジ大のベンカタラマン・ラマカリシャナン、米エール大のトーマス・スタイツ、イスラエルのバイツマン科学研究 所のアダ・ヨナスの3氏が受賞しました。リボソームはリボソームRNAとリボソームタンパク質の複合体である大小2つのサブユニットからなる巨大な複 合体であり、分子量は大腸菌では2.7 MDa、哺乳類では4.6 MDaにもなる構造体で、構造解析を行う上で結晶化が極めて難しかった。難攻不落と言われていた複雑な巨大構造物であるリボソームの構造を明らかにし、ノーベル賞を受賞し ました。

複雑な構造を見れば見るほど、疑問が湧いてきます。こんな巨大で複雑な構造物が何の設計図もなく最初は50種類以上のタンパク質とリボソーマル RNAが相互作用してエントロピー拡大の法則に反して自然に合成されたのか? 本当にそんなことが自然に起きたのか? 生命進化とは熱力学の法則とは 真逆のことをしている。山をさかのぼって頂上に転がる岩のようなものだ。30億年前の古細菌ももちろんリボソームを持っていることから、生命誕生から 比較的早く、これほどの複雑な構造体が組み立てられたと考えられます。シュレディンガーの問いを解いた研究者は未だ誰もいません。生命と生命進化の本 質とは一体何なのか、実に奥深い問題です。