先生のコラム

「茶碗の湯」と寺田寅彦


      


「茶碗の湯」という寺田寅彦の名随筆がある。ここでは、身近な自然現象の謎がわかりやすく的確な表現で説かれている。

「茶碗からゆらゆら湯気が立ち上がる。この小さな湯気をうんと大きなものに想像してみよう、茶碗の直径が数千キロとすればこの湯気は雲の動きとなる。 ちょうど気象衛星から眺めた地球の雲の動きと同じだ。」

寅彦のこのような語り口から、身の周りのほんの何でもないところに、自然の大きな謎解きの鍵があり、大宇宙に私たちを誘う窓があることを教えてくれ る。大きな統一原理から下におりてくるのとは逆に、身の回りの非常に細かい具体的なところから自然を解きほぐしていく。大宇宙につながる身の回りの小 さな入り口を自然の中にどのように見つけ出すのか、そのヒントが寺田寅彦の随筆の中には随所に描かれている。

私たちの日常の思考経路は、まさに小さな現象から大きな原理に向かう帰納的な思考回路を実践している。子供が「青空に浮かぶ雲をみてどうして雲は白 いの?」、「どうして空は青いの?」と訊くのは、子供たちが、心に問いを持ち、大宇宙への小さな窓を見つけていることに他ならない。私たちのような研 究者の思考回路はまさに子供たちと同じで、問いを見つけて、その窓を入り口にして、宇宙の原理を見つける方向に進んでいる。

しかし、教育現場では、まず大原理ありきで、そこから演繹していく方向に進む。数学も物理も、原理から教える。これは、実は本来の思考の回路に逆 らった方向である。それでは、人間の本来の意志が介入することができず、問いは初めから与えられ、答えを演繹的に見つけることが勉強することであると 学生たちは錯覚してしまいがちである。これではやはり学ぶことは面白くない。自ら問いを発する機会が存在しないからである。

近代科学は領域を細分化し研究者の守備範囲を区切り、各研究者に対象を深く掘り下げることにより発展するという特徴をもっている。寅彦の目にはその ようにして切り刻まれた対象にどれほどの生命が宿っているのか、全体を見渡すことこそが重要であるのに、その生命を寸断し、統一性を崩壊させてしまう 近代科学そのものに対する批判があったのではないかと思われる。特に、生物学ほど、細分化されて、全体像の見えにくい学問もないのではなかろうか。生 物学ほど、全体の統一性をしっかりと把握しなければ、大切な原理を見失ってしまう学問もない。ジェネラリストとスペシャリストの育成をどのようにバラ ンスをとって行うかが、自然科学、とりわけ生物学を教える者にとって課題となるだろう。そのためには、顕微鏡を臨機応変に“ズームイン”から“ズーム アウト”できるような柔軟な思考が必要である。

自然現象は、物理学、生物学から見てもわからないことがたくさんある。しかし、教科書には全部、解明済みの解ったことしか書かれていない。もし教科 書に現在、学問的にここまで解るが、ここから先は未解明で、次のような現象はまだ誰も解いていない、というふうに書かれているならば、それこそが科学 に対する正しい教育になるし、若い頭脳を刺激して、大発見を促す誘因にもなり得る。

寅彦の随筆を読めば、寺田寅彦の自然に対する深い愛情と温かみ、そして人間の品格と深みを見つけ出すことは難しくない。寅彦は漱石と正岡子規に師事 し、文学の才能を遺憾なく発揮するようになり、随筆は百年後の現在も読み継がれている。珠玉の随筆集と言っていいものです。文章の美しさ、物の背後に ある原理を見いだすときに、我々がどのように接すればいいのか、みずみずしく美しい文章で余すことなく描かれている。芸術的な才能と科学の才能を併せ 持つ点ではゲーテに通じる才人であり、理学と文学の境界で非凡な才能を発揮した寅彦のような真の教養人が現代ではほとんどいなくなったのはとてもさび しい。特にみなさんサイエンスを志す若い人にとって是非読んで頂きたい。


寺田寅彦:東京帝大・物理学科教授、理化研主任研究員、ラウエのラウエ斑点発見に刺激され、自らX線回折実験を行い、「X線と結晶」をNatureに 発表。Terada T. (1913) Nature, 91:135-136


同じ号にBragg親子らによるほぼ同一の方法論を示した論文が掲載された。W. H. Bragg and W. L. Bragg, Nature, 91, 557 (1913).これらの発見から、今日のタンパク質の構造解析にも通じるX線結晶学の道が開かれた。残念ながらノーベル賞を受賞したのは、Bragg親子で、寅彦は選から 漏れた。しかし、寅彦は、当時から際立ってセンスの良いサイエンティストだったということは疑いようも無い。研究テーマのオリジナリティ、プライオリ ティの高さは、群を抜いている。人まねを非常に嫌った科学者だった。