相対論的量子化学

はじめに | 高精度2成分相対論法 | 高精度かつ高速な相対論的量子化学計算手法の構築 | おわりに | 参考文献

はじめに

Schrödinger方程式を基礎とする非相対論的量子化学は約90年の歴史において大いに発展してきた。量子化学は一見成熟期に差し掛かったかのように見えるが、周期表のあらゆる元素を扱うためには現段階の量子化学理論は不十分である。それは相対論効果が無視されている、もしくは十分に考慮されていないためである。相対論効果は特に重元素で大きく働く効果である。重元素では電子が原子核の周囲を光速に近い速度で運動するため、このような電子状態を正確に記述するためには、量子力学的効果だけでなく、相対論効果を考慮する必要が出てくる。

相対論的量子化学では初めに、1電子Diracハミルトニアン[1]に基づいた4成分相対論法が発展していた[2]。しかしながら4成分相対論法は分子の電子状態を得るための方程式を用いているにもかかわらず主に電子状態を表現する大成分スピノルと主に陽電子状態を表現する小成分スピノル双方の計算が不可欠であり、計算コストが膨大になることが知られている。この問題点を回避するために、現在までに様々な理論拡張が行われてきた。


高精度2成分相対論法

陽電子の関与する相互作用が露わに含まれない分子系では、一般的に電子と陽電子の相互作用を考えないno-pair近似[3]に基づいた計算が可能である。この近似下では、ユニタリー変換を施すことにより、本質を変えずに電子と陽電子を完全に分離して電子のみの情報で計算が可能である。このような手法を2成分相対論法という。十分な相対論効果を加味することができる2成分相対論の一つとして、1985年に、核―電子ポテンシャルにより展開し、有限の次数まで取り入れるDouglas-Kroll変換とHessの数値計算手法を組み合わせたDouglas-Kroll-Hess (DKH) 法が開発された[4,5]。これは4成分相対論からの近似理論であるが、2000年代に入り、1電子Diracハミルトニアンと等価な結果を与える、無限次DKH (IODKH) 法が初めて提案された[6]。その後、多電子Dirac-Coulomb, Dirac-Coulomb-Bleitハミルトニアンに対する2成分相対論も開発された。一例としてIODKH/IODKH法を挙げることができる[7]。IODKH/IODKH法はもっとも高精度な相対論的手法のひとつであり、figure 1のように4成分相対論法と同等な計算をすることができる。

IOKDH/IODKH
Fig. 1. Total energy difference of several two-component methods from Dirac-Fock/Coulomb (DF/C) results in two-electron atoms (hartree).

高精度かつ高速な相対論的量子化学計算手法の構築

前節から分かるように、2成分相対論はより高精度に取り扱うことに重きをおかれて開発されてきた。しかし、実用的な相対論的量子化学計算を実現するためには、より大きな系を扱う方向にも発展する必要がある。そこで当研究室では、IODKH/IODKH法を効率的に行う局所ユニタリー変換(LUT)法を開発した[8-10]

LUT法では、相対論的な相互作用に関しての局所性を利用する。相対論効果は一般的に内殻近傍で最も大きく、核から遠くなるにつれて急激に減少する。したがって、ある特定の距離以上離れている原子間の相互作用は非相対論と同様になると考えられる。LUT法を用いて計算を行なった結果をfigure 2に示す。これより、線形スケーリングを達成していることが分かる。

lut
Fig. 2. System-size dependence of CPU time (sec) of the one-electron unitary transformation in (HF)n (n=10, 20, …, 50) calculated with LUT-IODKH and IODKH methods.

また、重金属クラスターなど重金属を多く含む分子に対しては、基底の数に由来して計算コストが増大するという問題がある。そこで当研究室では、相対論的な擬ポテンシャル法として凍結内殻ポテンシャル (FCP) 法を開発した[11]

FCP法では、内殻ポテンシャルとして孤立原子に対しIODKH法を適用した計算結果を用いる。また価電子領域の計算は、内殻ポテンシャルと価電子を同時に考慮してIODKH法を適用することで行われる。これにより露わに扱う電子数を減らしながら、分子全体をIODKHレベルで計算することが可能になる。FCP法を用いて計算を行なった結果をfigure 3に示す。これより、従来の全電子計算にかかる計算時間を大幅に削減できることがわかり、計算可能な分子範囲が格段に広がると期待される。

fcp
Fig. 3. CPU times for SCF cycle step in the AE and FCP calculation for a Cu2 molecule at the LUT-IODKH/C level.

おわりに

当研究室では、4成分相対論と同等の計算精度を与えつつ、非相対論と同様の有用性を兼ね備えた手法を開発してきた。また、IODKH法を用いた高精度な解析的微分や電子相関計算理論なども開発してきた。さらに、これらの理論基盤に基づく汎用的な量子化学プログラムの作成も進めている。これらを用いることで、従来の非相対論的な量子化学計算から相対論計算へのパラダイムシフトが実現可能であると期待している。


参考文献
  1. "The Quantum Theory of the Electron"
    P. A. M. Dirac, Proc. R. Soc. A, 117, 610 (1949).
  2. R. R. Moss, in Advanced Molecular Quantum Mechanics, edited by Chapman and Hall (London, 1973).
  3. "Foundations of the relativistic theory of many-electron atoms"
    J. Sucher, Phys. Rev. A, 22, 348 (1980).
  4. "Quantum electrodynamical corrections to the fine structure of helium"
    M. Douglas and N. M. Kroll, Ann. Phys., 82, 89 (1974).
  5. "Applicability of the no-pair equation with free-particle projection operators to atomic and molecular structure calculations"
    B. A. Hess, Phys. Rev. A, 32, 756 (1985).
  6. "Infinite-order two-component theory for relativistic quantum chemistry"
    M. Barysz and A. J. Sadlej, J. Chem. Phys., 116, 2696 (2002).
  7. "Examination of accuracy of electron–electron Coulomb interactions in two-component relativistic methods"
    J. Seino and M. Hada, Chem. Phys. Lett., 461, 327 (2008).
  8. "Local unitary transformation method for large-scale two-component relativistic calculations: Case for a one-electron Dirac Hamiltonian"
    J. Seino and H. Nakai, J. Chem. Phys., 136, 244102 (2012).
  9. "Local unitary transformation method for large-scale two-component relativistic calculations. II. Extension to two-electron Coulomb interaction"
    J. Seino and H. Nakai, J. Chem. Phys., 137, 114101 (2012).
  10. "Analytical energy gradient based on spin-free infinite-order Douglas-Kroll-Hess method with local unitary transformation"
    Y. Nakajima, J. Seino, and H. Nakai, J. Chem. Phys., 139, 244107 (2013).
  11. "Frozen core potential scheme with a relativistic electronic Hamiltonian: Theoretical connection between the model potential and all-electron treatments"
    J. Seino, M. Tarumi, and H. Nakai, Chem. Phys. Lett., 592, 341 (2014).